第2話 わしが創価学会をやめたわけ
わしは2001年の春、創価学会を脱会しました。
その理由についてお話します。
創価学会は、身延を始めとする日蓮宗各派を、
地獄に落ちる教えであると誹謗して参りました。
その理由は、日蓮宗各派は久遠実成の釈尊を本仏としますが、
創価学会は日蓮聖人を本仏とします。
日蓮聖人を本仏とする理由は、
五百塵点劫の時代に釈尊を教化したのが日蓮聖人であると言う考え方です。
なんとも、こじ付けとしか言えない論法なのですが、
この論法の上に学会教学は成立しております。
学会から見ると、本仏は日蓮聖人でなければならないのに、
その弟子である釈尊を本仏とするのは本末転倒であり、
百害あって一利もない。地獄の沙汰であると言う事になります。
『俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に不具者ができたり、知能の足りない子供が生まれたり、
はては発狂する者ができたりして、四代法華、五代法華と誇っている家ほど悲惨な生活をしているのである。』
(池田大作監修「折伏教典」)
『日蓮正宗以外の宗派はすべて人々を不幸に落とす力をもっている。』(同上)
「折伏教典」では、
日蓮宗各派を強引に蹴落とす為の「日蓮久遠本仏論」と言う主張を展開して、
ケチョンケチョンに相手をこき下ろしております。
以前の学会員は、みな「折伏教典」を忍ばせて、布教して歩いたのです。
結果は、どういう事になるかわかるでしょう。
この「折伏教典」は昭和26年から昭和45年まで刊行され、
その間、学会は猛烈な布教活動を行いました。
この布教活動によって、創価学会は、世間を敵に回したのです。
折伏の論拠が客観的妥当性があれば、まだ良いのです。
メチャクチャじゃないですか。
日蓮久遠本仏論なんて、後から勝手に作り出した事であって、
日蓮聖人はそんな事はまったく言っておりません。
少なくても、真筆の御書には、そういう事は書かれてないのです。
日蓮聖人は、久遠実成の釈尊を本尊とせよとは言っておりますから、
むしろ、学会の批判する日蓮宗各派の方が正しいのです。
まったく学会のやっている事はメチャクチャです。
言いがかりをつけて、他宗を蹴落としているとしか考えらえない。
信仰があるとは思えないのです。
本当に信仰があるならば、
日蓮久遠本仏論の妥当性を、本山に対し、もっと追求するべきです。
追求し、納得した上で、主張すべきなのです。
日蓮久遠本仏論なんて、学会員自身、本当は納得してないはずです。
今は、日蓮久遠本仏論が会内的にも通じないと知って、
極端な宇宙生命論にシフトしてます。
創価学会は日蓮久遠本仏論と言う事を、
あまり知らないで大石寺の信徒団体になったのではないかと思います。
初代牧口常三郎会長は、日蓮久遠本仏論について知らぬまま、
大石寺に接近して行ったのではないかと思うのです。
初代牧口常三郎会長にとっては、
富士門と言うよりも、日蓮仏法に対して興味があったのではないでしょうか?
富士門の宗義については無頓着だった。
無頓着なまま、拡大して行った。
それでも初代牧口常三郎会長の時はまだ良かったが、
二代戸田城聖会長の時、強烈な拡大を成功させる為に、
日蓮宗各派を叩きのめす必要があった。
その道具として日蓮久遠本仏論を利用したのではないかと思います。
創価学会は拡大が目的であって、教義などどうでもいいのです。
まったく節度のない教団であります。
この一連の話を聞けば、誰でもそう思うはずです。
創価学会がもし、久遠寺の信徒団体になっていたら、
まったく逆の主張をしていたでありましょう。
「折伏教典」をハッキリ肯定するか、否定すれば、わしは創価学会を認めましょう。
肯定するのならば日蓮久遠本仏論をもう一度組みなおして、再主張するべきです。
客観的妥当性があるように、論法をまとめるべきです。
もし、否定するならば、間違った論理によって、
強引な折伏をやってしまった事を、国民にお詫びするべきだ。
そして、一度、学会を解体し、新しい教団を作って、出直すべきです。
学会は、どっちかの道を選択すべきだ。
しかし、どっちも学会は選択してない。
臭いものにフタ的に「折伏教典」について封印している。
本尊論に関わる、一番重要な点なのに、マズイと思った事は封印してしまう。
そういう体質が学会の体質です。
今の若い創価学会員の中には「折伏教典」の名前も知らぬ者が多い。
こういうヤリカタをする団体が、一番けしからん。
だからわしは学会を捨てたのです。
わしは日寛上人の説いた日蓮本仏論を全否定はしません。
釈迦仏信仰に傾きつつあった宗内の空気を是正する為に、
あえて出したのが日蓮本仏論だからです。
でも日寛上人の説いた日蓮本仏論は、
日蓮聖人だけが特別な超越した存在と言う意味ではありません。
凡夫の代表としての日蓮本仏と言う意味です。
これは代表本仏論と言えます。
日寛教学における本仏とは、本来衆生全員を示すのです。
自分自身が本来の本仏だから、他力に依存するものではないのです。
自立を促す仏教なのです。
一方、一致派では、法信仰が死んで、釈迦が、現世御利益の対象になってます。
これでは、日蓮聖人の出世した意味がありません。
こういう論法を、創価学会が主張すれば、
わしは学会を捨てる事はなかったかも知れません。
「折伏教典」で身延攻撃した理由も、一理あると思えるからです。
しかし、わしの言う意味で、
つまり法信仰の上から日蓮宗各派を攻撃していたのではなかったのです。
もし、法信仰の上からの破折ならば、学会は今からでも弁明できるはずです。
そうじゃなかった事は、学会が「折伏教典」を封印している事が証明しています。
創価学会は「法信仰」と言う事すら、理解していないのです。
その証拠に、本門戒壇大御本尊すら封印しています。
本門戒壇大御本尊は、法信仰の象徴です。
本門戒壇大御本尊が、日蓮仏法が法信仰である事を示しているのです。
本門戒壇大御本尊の棄却は、法信仰の棄却です。
この事から、学会が「折伏教典」に書いた事は、
法信仰の上から日蓮宗各派を責めるのが目的だったのではなく、
単に、日蓮宗信徒を学会に引きずる目的だった事が明確にわかります。
宗教団体にとって重要なのは、一貫性です。
一貫性が保てなくなった教団は、死ぬしかないのです。
日興聖人は、
身延山に「法信仰」と言う一貫性が保てなくなったと思い、離山したのです。
わしも創価学会は一貫性が保てなくなったと確信して、離会したのです。
学会教義に一貫性がない事を知らない創価学会員が多い事は、
嘆き悲しむばかりです。
学会教義に一貫性がない事を所を知れば、学会を離れる人が多い。
知らないからこそ、創価学会員でいられるのでしょう。
中には、以前のわしのように、学会教義に一貫性がない事を熟知しながら、
内部改革によって一貫性を回復させようと残られている方もいます。
小沢一郎は小泉政権に対し「自民党の改革ができればいいけど出来ないでしょう。
改革が出来る位ならば、私がやってます。
自民党の構造は絶対改革できないから、私は党を離れたんです。」と言いましたが、
創価学会なんて内部改革出来ませんよ。
宗教ビジネスが創価学会の目的であって、教義なんて道具なんですから。
これは創価学会のみならず、宗教団体全体がそうです。
宗教団体と言うのは、ビジネスなんです。
ビジネスですから、他の教団と差別化する為に、教義を固定させる。
教義を固定したけれど、時代が変われば、教義も変わって来ざるを得ない。
でも、教義が変わると言う事は、宗教団体にとって致命傷です。
ですから、宗教団体と言うものを誕生させた時点で、矛盾を抱えるのです。
日蓮聖人自身も自分の教団らしきものを持っていた。
そして、そういうものを持つ中で、色んな矛盾を発生させて行ったのです。
「教団」と言うもの自体が、矛盾なのです。
宗教に団体は不要です。
わしはいかなる教団にも所属しません。
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